詩人の永方佑樹さん(撮影:和久井幸一)

 

 

詩って、本の中にしまわれて、じっと動かないものだと思っていた。詩人・永方佑樹に会うまでは。

音や映像、自然物を用いた「立体詩」という表現を確立し、紙の上にとどまらない詩の在り方を追求している詩人の永方佑樹さん。

 

彼女がどんな思考やまなざしで表現に向かっているのか。世界に何をあらわそうとしているのか。

今回の取材は、それらを少し紐解いてみる時間となりました。

 

それはさながら、永方さんのワークショップ。

頭の中にあたらしい空間が広がっていくような、不思議な感覚を味わいました。

 

書きたい人も、表現に触れたい人も、踊り出したい人も、あらゆる人に読んでみてほしい記事です。

 

 

 

 

話を聞いた人:永方佑樹 (ながえ ゆうき)さん

 

 

詩人。2019年詩集『不在都市』(思潮社2018)にて歴程新鋭賞、2012年詩と思想新人賞を受賞。テキストベースの詩作の他、映像や音・自然物等を使用し、詩を立体的に立ち上げる独自の立体詩を国内外で展開(ハーバード大学世界文学研究所サマーセミナー、仏サン・レミ美術館、吉祥寺シアター等)、2019年6月には翻訳者・比較文学者・映像人類学者・詩人を発話者とするマルチメディア多言語詩制作パフォーマンス「おと/ずれる言語」(三鷹SCOOL)を主催・企画。また、詩を本の外にひらいていく詩人集団oblaatの一員として「きのくにトレイナート」や「MIND TRAIL 奥大和心のなかの美術館」等の芸術祭にも参加、社会やアートとリンクした活動も行っている。名古屋芸術大学非常勤講師。

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古来、言葉は身体的なものだった

 

 

― 永方さんは、「立体詩」やパフォーマンスなど、私がイメージする一般的な詩人像とは異なる表現活動をされています。どのような経緯でいまの表現にたどり着いたのでしょうか。

 

たしかに、日本の現代詩の世界では、エクリチュール(書き文字)のなかで表現するのが正統とされている部分があると思います。しかし、私はフランスのパリで詩に出会い、日本の「古典」を学びながら詩を書きはじめたという経緯がある。現代詩を表現の幹とはしていますが、出発点としての根は、別の土壌に張っているのかもしれません。

そもそも、私にとって立体詩やパフォーマンスの活動は、前衛というよりも、むしろ根源に戻っているという感覚なんです。

歴史を振り返ってみると、詩の根源的なかたちは、身体をともなって、歌いながら、踊りながら表現するものでした。それは、日本はもちろん、西洋詩文化の発生地であるギリシャでも同じです。

詩は、歌と踊りとセットであり、言葉は本来、身体的なものだったのです。

 

 


奈良県で行われた芸術祭「MIND TRAIL」で永方さんが詩を提供したoblaatの作品《distance》

 

 

また、パソコンを執筆の道具とし、オンラインでコミュニケーションを行ったり、SNSをはじめとしたネットでの表現を当たり前のように行う現在において、デジタルは既に人々の身体の一部であるように感じます。

であれば、映像や音などのメディアの中に身体をくぐらせ、表現すること、その経験を自身の身体を通して行うことは、詩の根源に立ち戻る行為であると同時に、ナチュラルでアクチュアルなもののように思うのです。

何より、デジタルのコードを言語の領域としてとらえる行為は、アナログからデジタルへと移り変わってゆく「今」を生きる表現者として、ひとつの義務のように感じます。

テクノロジーを通して五感を拡張してゆく、身体のアクチュアリティ。その身体をもってエクリチュールを行うことが、私の詩の形なのです。

 

 


《distance》は、言葉の横にあるQRコードをスマートフォンで読み取り、流れてくる詩を聴きながらその場で見える風景を「視る」ことで、吉野の時間軸に観客の身体が取り込まれてゆく、という体感型詩作品。

 

 

― 表現の上で、影響を受けた人はいますか?

 

詩人の吉増剛造さんと、シュルレアリストの巖谷國士先生でしょうか。

吉増さんはそもそも大詩人ですから、1人の詩人としては当然、元々あこがれを抱いていたのですが、私の詩集『√3』を読んでお手紙をくださって。その手紙が、私信にも関わらず、紙や筆の色、語や文字の形の全てが詩だったことに、深い感銘を受けました。

吉増さんは「全身詩人」とも呼ばれますが、その意味、在り方を知った気がします。それ以降、ますます吉増さんの表現の手法や” 詩魂“”根源”といった考え方に影響を受けていると思います。

また、巖谷國士先生は台湾のドキュメンタリー映画「日曜日の散歩者 わすれられた台湾詩人たち」を通してご縁をいただいて以来、幾度かお話しをさせていただいているのですが、原因と結果を安易に結びつけたり、始まりと終わりをたやすく明示する語り口を私がすると、すかさず厳しい指摘をいただきます。

巖谷先生もまた、生き方・在り方そのものがシュルレアリスムな方です。そうした先生の声の対面に、自らの声を立たせることは、安易に世界を切り取りがちなまなざしを鍛えるだけでなく、世界を表象する手段としての言葉の役割を思い出させ、言語表現者としての意識や文法を深めさせてくれます。

 

 

 

 

パリで出会った、日本語の美しさ

 

 

―先ほど、パリで詩に出会ったというお話がありましたが、そもそも永方さんが詩の表現をはじめたきっかけは?

 

フランスのパリに留学していたときに、たまたま読んだエドガー・アラン・ポーの詩に感動して。それまで、自分の書く言葉は利巧的で、自分には言葉で表現する資格はないと思って生きてきたのですが、言葉って素晴らしい、自分も書きたいと思ったんです。

その頃、フランス語で人に話しかけても英語で返事を返されてしまう、ということがたびたびあって。パリが観光地だからだとは思いますが、たとえどんなに言葉を巧みに話せるようになったとしても、やはり私の母語やパーソナリティは変わらないのかなと感じていました。

そんなとき、日本の本を扱う書店で「枕草子」に出会って、読んでみたら、あまりにも鮮やかで。1000年前にこんな素晴らしい質感、五感に満ちた言葉や組み合わせを、日本人は、日本語は生み出していたのだなと。じゃあ、私はこの言葉を元に表現するべきだと思いました。

そして、急遽帰国して大学院で日本文学の古典を学びはじめ、だんだん詩を書くようになりました。

 

 

― 表現の出発点が「日本の古典」というのはそういうことなのですね。大学院では具体的にどんなことを勉強したのですか?

 

私の研究対象は「四季観」でした。日本人の感性がどのような思想を根底にしているのか知りたいと思ったときに、勅撰和歌集をはじめ、「四季」と「恋」というのが日本文学にとって非常に重要とされているのだと学びました。

特に四季観は、俳句の季語をイメージすれば分かるように、日本の文学をからめとり、良きにつけ悪しきにつけ、表現を固定している、感性の根なのです。そうした日本人と四季の関係を確かめられれば、自分も根源的な言語の発生ができるのではないかと思いまして。

 

 


奈良県で行った《移動型演劇ジオレター》は、実際に道を辿りながら、道の記憶(=住人の言葉)を音声で聞くという観客参加型のパフォーマンス。最終的にそれらを「現在形の目」としての長時間露光で写し取り、道の現在形を露わにするという試み。

 

 

 

 

 “一滴の黄色”を、表現したかった

 

 

― 写真家の北山建穂さんと永方さんの詩でコラボレーションしたビジュアルガイド『四季彩図鑑』は、まさに当時研究されていたテーマに近いものがありますね。

 

そうですね。オファーをいただいたとき、自分の表現の発生の瞬間に引き戻してもらえる機会だと思いました。

 

 

― 写真に詩を添えるというのは、難しかったですか?

 

100色以上の素晴らしい写真と色の名前の組み合わせがあって、「ここから好きなものに詩をつけてみてください」と言われました。それを選ぶのは難しかったです。どれも本当に素晴らしい写真なので…。

 

 


日本の伝統色を写真で紹介する”色の辞典”『四季彩図鑑』より

 

 

― 詩を書く上で心がけたことはありますか?

 

この本における詩の役目は、見る人のまなざしを広げることかなと思っています。なので、五感に訴えるような言葉、固定した物語を持ちすぎないことを意識しました。

たとえば、「白藍」という色。この文字を見た人は、白と藍でできている色だと思いますよね。それが言葉のいいところと悪いところ。意味を断定してしまうんです。ところが本当は、この色には、よく見るとほんのり、黄色が入っているんです。

本来の色に含まれる、一滴の黄色。言葉の表記で取りこぼされてしまっている黄色。それを、写真のイメージを広げつつ、どう補完してあげられるのかを考えながら書きました。

 

 

― この詩を読んだとき、ただただ読んでいて気持ちよくて、何も考えませんでした。綿密に練られた詩というのは、むしろ読み手の頭を空っぽにして、感覚を開いてくれるのかもしれないですね。難解な言葉も使われていないですし、幅広い年齢層に楽しんでもらえそうだなと思いました。

 

そうですね。言葉を習いはじめたばかりの子どもから大人まで分かるような言葉を使いたいと思って、それを心がけました。

この本は、写真も美しく、添えられている解説文も大変文学的で五感を刺激するものなので、”年齢不詳”というか、本当にあらゆる年齢の方に楽しんでもらえると思います。

この本を読んで、どの言葉が記憶にこびりつくのか、逆に、どんな言葉を取りこぼすのか。読む人がどう受けとるのか、とても興味があります。

 

 

 

 

― この本を使った参加型のワークショップなどもやったら面白そうですね。読む人の五感に訴えるという意味では、立体詩やパフォーマンスの活動にも共通するものがありそうです。

 

そうですね。結局、本を書くのも読むのも、身体的な行為なんですよ。指や目の動きから、手触りや匂い、喉の感触ともつながっていく全身の運動です。書く人と読む人それぞれの身体が、本という媒体をとおして対峙する。それが読書なのだと思います。

 

 

―そう思うと、これから本を読むときの感覚や意識が、がらりと変わりそうです。今日はありがとうございました!

 

 

 

 

〈おまけの質問〉

 

Q.ここだけの話を教えてください

 

いま、アメリカの友人と、日本やアメリカの詩人と技術者を集めて「詩とテクノロジーで世界を書き換える」というコンセプトのCŌEMというアートグループをつくろうとしています。アメリカだけではなく、カナダやハンガリー、ドイツ等から参加するメンバーもいます。今年中に発表できると思うので、楽しみにしていてください。

 

 

 

 

 

( 取材・文:笠原名々子  )

 

 

 

 

《 本について 》

四季彩図鑑
作:北山建穂 詩:永方佑樹
色の名前を知ることで、初めて出会える感動がここにある